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忍城開城とその後の甲斐姫

1月17日(木)午後1:30分から行田市民大学・行田市民大学同窓会の合同講演会がものつくり大学の教室で開かれました。講師は、福岡県生まれの作家で歴史研究家の三池純正(みいけよしまさ)氏です。先生は、戦国時代を中心とした歴史に関するたくさんの著書があります。この中で、今回のテーマに関連した書籍「のぼうの姫―秀吉の妻となった甲斐姫の実像」を書かれています。今回このテーマとこれと重なる「忍城開城とその後の甲斐姫」というテーマで講演して頂きました。

今回は、行田市民大学と行田市民大学同窓会の合同講演会であったため、在校生が80名、同窓会から150名、役員を含めて250名を超える受講者で、会場は満員、行田テレビからの取材もありました。

講演に先立って、今村理事長のご挨拶がありました。

DSC_1980理事長からは、稲荷山古墳の発掘調査から50年、稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文が発見されてから40年にあたる今年、それを記念して、埼玉会館大ホール(さいたま市浦和区高砂3-1-4)で2月17日に行われる記念講演会「さきたま あれから これから」への参加者募集の案内がありました。行田からはバスが出るそうです。

DSC_1990

続いて、三池純正氏による講演が行われました。

DSC_1989三池純正氏

最初は、忍城水攻めについて、のぼうの城とは、別の歴史的観点からの説明がありました。

関東には、騎西城、岩槻城、川越城、その他にも水攻めに適した城があったが、いずれも水攻めは行われていない。そんな中で忍城を水攻めにすることは、秀吉が水攻めを命令したことが、書状で記録されている。忍城も降伏をしてきたことが、記録されている。それでも秀吉は水攻めを命じた。

秀吉が水攻めを命じたのは、秀吉の力を関東に見せるためのパフォーマンスであったという。

のぼうの城では、忍城近辺の各地で、三成軍と忍城軍の戦いが行われたことになっているが、実際に戦いが行なわれたのは、皿尾城のみで、ここでは両軍に多数の死者がでた。

DSC_1994皿尾城(行田市皿尾)

戦いの後、氏長は、会津蒲生家に預けられ、8000石、弟の泰親には2000石が与えられる。城として福良城(?)が与えられる。甲斐姫は、秀吉の側室になる。甲斐姫は美貌で聡明だった。秀吉には16人の愛妾がいたとあるが、9名は名前がわかっている。甲斐姫は「かい姫」となっている。秀吉の死まで側室で、醍醐の花見の短冊にも「かい」という名前の短冊が見られる。

その後の甲斐姫の消息はわからない。

秀吉の子、大阪城の戦いで亡くなった秀頼には、天秀尼という子があり、この子の母は成田氏だという。その母の出身は、伊勢となっているが。天秀尼と乳母の墓が鎌倉の東慶寺にある。この乳母が、甲斐姫とも考えられるが、伝承はない。

DSC_2002天秀尼と乳母の墓(手前の右から2番目(天秀尼)と3番目(乳母))

その後の成田家は、2度のお家騒動の結果、城と領地を没収され一族は四散した。

非常に情報が少ない中でののぼうの城以降の歴史について解説して頂き、面白かったです。

 

2019年1月22日 火曜日 at 5:44 pm| Posted by kouhou-kozutsumi